大変化の「新しい時代」に、戸惑ってしまうことありませんか?
若い頃のような情熱が薄くなってしまっていることに気づいた時
悲しい!ですね。
「もう歳だからいいよ」なんて言わないで
若い頃、見ていた夢の中へ行ってみたいと思いませんか?
新しい時代を、楽しむために挑戦してみましょうよ。
「富山市ガラス美術館」の素晴らしさに魅了されて、隈研吾氏のデザインが「和の大家」になったのはいつなのか知りたくなりました。
建築は夢の中ですね。
建築家「隈研吾」
隈 研吾(くま けんご、1954年〈昭和29年〉8月8日 - )は、昭和・平成・令和時代の日本の建築家(一級建築士)。
神奈川県横浜市出身。
株式会社隈研吾建築都市設計事務所主宰。
東京大学教授。
1990年代半ば以降(ゆすはら座関連設計以降)、木材を使うなど「和(日本)」をイメージしたデザインを旨としており、「和の大家」とも称される。
なぜ、「和の大家」になったか?
梼原町内には、隈さんがデザインした「雲の上のホテル・レストラン」や梼原町役場、「雲の上の図書館」などがある。いずれも杉やヒノキなどの地元産材を多用した特色ある建物ばかりだ。高知新聞より
サハラ砂漠にある村を見た時
大学院の時に、アフリカのサハラ砂漠を縦断し、そのまわりのサバンナの集落の調査をして、偶然にパラパラとした「小さな家」にであった。
日干しレンガで作った、四角や円い形の小屋が、中庭を囲むように、パラパラと5―6棟並んでいるのである。
その中庭のまん中には、いくつもかまどがあって、夕方になると、かまどの火を中心にして、人々が集まってきた。
これは家とも村ともつかない、その中間のようなものだった。
1990年バブルがはじけた時、地方に行った
隈研吾氏の設計で1991年に完成した「M2」は、ポストモダンのデザインとして話題になった。しかし、バブル経済が弾けて、その後10年間は我慢の時代が続いた。地方での経験を積み重ね、2000年には代表作の一つである「那珂川町馬頭広重美術館」が生まれた。
「俺はどれでもないぞ、俺は俺」という思いでした。
自分は、観念的な建築ではなく、リアリスティックな建築をつくりたいと思ったのです。
- 東京での仕事がない10年の空白の時代
- 建築界でのM2の評判も芳し
隈研吾氏でも、「失意の時」があった。
人生には、誰にでも「失意の時」があると思う。
簡単に乗り越えられないが、いつも向き合うしかない。
ゆすはら座関連設計以降
1987年、梼原町の木造芝居小屋「ゆすはら座」の保存運動に携わり、「細い柱であんなに大きな空間をつくっていて、すてきだ」と感銘を受けたという。
コロナ後の生き方
コロナの箱からの脱出して
時間からも解放されて
自分のスタイルをつくる。
まとめ
最後までご覧いただきありがとうございました。
今回は、隈研吾氏を紹介しました。
建築が与えてくれるのは、未来への希望ですね。
作品に触れてみたい。
行って見たいと思いませんか?
いかがでしたか?
コロナが晴れたら、梼原町へ絶対に行って見ます。